御召しと縮緬のお話 第2話
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今回のメールマガジンもまたまた、中西信弥さまに、、、
感謝!感謝!感謝!
正直、何の面識もない私のHPを見て、情熱だけでこんなお手間なご協力をして頂けるとは、、、
本当にありがとうございます!
今回ご協力して下さった方は前回に続き、「西陣織屋ことば辞典」の著者でもあり、 以前もテレビにも出演されるほど超~凄いお方「中西信弥さま」で~す。 ぱちぱち!
中西さま本当に有り難うございました。(敬礼)
今後とも色々なお知恵をお教え下さいませ。
ぺこり。
宜しくお願いいたします。
感謝!感謝!感謝!
せめてお書きになった本だけでもご紹介させ て下さい。
中西信弥さまの本ご紹介 「西陣織屋ことば辞典」
中西さま本当に有り難うございました。(敬礼)
今後とも宜しくお願いいたします。 感謝!感謝!感謝!
それでは宜しくお願いします~~~~~っ! ぱちっぱちっ!
今日は歴史的な面白いお話です~!
[ 御召と縮緬のお話 2 ] 特別講師 中西 信弥さま
今は御召と縮緬は、はっきり西陣と丹後或いは長浜などに生産が分かれ
ていますが、江戸時代(徳川八代吉宗 享保年間 1713~1736年)までは両方とも西陣で独占的に生産していました。
それがどうして西陣と丹後に分かれたかというと、享保の初め頃、丹後峰山から西陣に奉公に来ていた佐平治という人が、苦労して習い覚え、郷里に持ち帰ったのです。
この人は絹屋佐平治といい、糸屋さんみたいな屋号ですが、実は元々から織物業者でした。
品種は「精好」という、生糸の単純な平織りで、絹織物としては高級品ではなく、それだけでは生活が苦しいので、副業として煙草を刻む仕事をしていたようです。
佐平治が西陣へ見習い修行に出たのは享保二年(1714年)の春で、既に妻子がありました。
当時仕事の見習い奉公といえば勿論住み込みで、原則無給です。
女房子供を故郷に置いての奉公ですから、よほどの決心だったと思われます。
西陣は室町時代以来、御寮織物司として幕府の庇護をうけていて技術の流出には警戒心が強く、その意味では排他的閉鎖的であったのですが、佐平治は現役の織物職人でしたから主家のシステムにも早く馴染み、出身地に産業を興して地元の発展を願う一心で修行に励んで半季奉公の約束期限通り半年で一応の仕事を覚えたそうです。
しかし半季奉公の妻帯者に、主人が技術情報の重要部分を明かすわけはなく、その年の秋に帰郷して縮緬の試作に取りかかったのですがどうしてもうまくいかない。
綺麗なシボが出ないのですね。
そこで思い直してその年の十二月に再び西陣へ出て来ました。
そして親しくなっていた糸屋の番頭を抱き込んで、強撚糸を作る撚糸工場の鍵を持ち出させ、ある夜そこへ忍び込み機械の仕組みを詳細に写し取って逃げ出したのです。
佐平治はその後、地元に産業を興した功績により峰山藩主から森田という姓を賜り森田治良兵衛と名乗りましたが、森田家には佐平治の業績を
伝える文書が残されていて、その行為は今の言葉で言ってしまえば産業スパイなんでしょうが工場へ忍び込んでゴソゴソやっているうちにそこの
主人が目を覚まし起き出してくる気配に慌てて逃げ出したと、むしろ誇らしげに記し、罪の意識は全くありません。
当時は考案とかノウハウとかの知的財産を盗み取られても、物質的被害がない限り盗難とは考えなかったようです。
丁稚奉公に入っても、主人は決して仕事を教えるなどしなかったから見習いの者は親方や先輩のすることを文字通り見習って仕事を覚えたもので、技術は盗み盗まれるのが
当たり前だったのです。
まあ当初は多少もめたかも知れませんが、西陣と丹後が敵対するようなことにはなりませんでした。
それというのも、染織に関連する周辺技術を根こそぎ持って行かれたのではなく、糸のままで染める先染めのノウハウも無事だし御召にまでは手が及ばないのは明らかでした。
何よりも西陣には、大舎人以来伝承され
た意匠力と言ったものがあって、先染めは糸の段階から色目やデザインを決めねばならないし、後染めは油小路あたりに何軒もある染めもの屋さんへ持ち込むか、白のまま販売するほかありません。
西陣は御召の領域を侵されない限りそう慌てることもなかったのでしょう。
佐平治は縮緬の技術を持ちだして次の年明け早々から故郷で縮緬製織の試行錯誤を繰り返していました。
ところが佐平治にとって、願ってもない追い風となる出来事が起こりました。
「史料京都の歴史」という古文書を集めた本が京都市の編纂で出ていますが、その上京編に拠りますと、佐平治が苦心惨憺していたその翌年の享保四年二月十九日、笹屋町浄福寺東入る北側、帯屋佐兵衛と言う織り屋さんから火が出て、東北風のため西は千本、南は一条まで、民家百三十数軒が焼けました。
この辺りは今日でも西陣機業の中心地です。
消失した家は大方機業家で、そのため西陣の生産量は激減してしまい、未熟な佐平治の縮緬も室町問屋が喜んで受け入れました。
さらに縮緬技術が漸く丹後地方に根付き始めた享保十五年(1730年)六月二十日、上立売室町西入る北側、大文字屋五兵衛という呉服屋さんから出火(「西陣天狗筆記」に記すところでは、息子の元服祝いの宴会
の最中、台所の火が何かに燃え移ったのだそうです。)して大火となり、
技術流出で揉めている状況でなくなってしまいました。
このとき134町3798軒、織機3012台が焼けました。
当時の全機台数の約40%に相当します。
そんなことで、西陣は縮緬生産を丹後に任せる成り行きとなったのです。
やがて、西陣は先染め織物一般、丹後は縮緬だけと生産が分化して行き、今日でも地元峰山では佐平治さんを地場産業興隆の功労者として尊敬を集めています。
ついでに申しておきますと、丹後と並ぶ縮緬産地、近江長浜にこの技術が定着したのは、今の滋賀県浅井郡びわ町の中村林助・乾庄九郎の両人が、宝暦二年(1752年)に丹後で習い覚えて伝えたものです。
中西さま本当~~~~に有り難うございました!
そして、お疲れさま~~~~~~~~~~でした!
※これらは2002年4月6日に西陣の糸屋が発行したメールマガジンを変更した内容です。
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最終更新日2012年2月
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