しのぶもぢずり
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救世主が現れましたっ!
「持つべき者は良いお客さまっ!」
あっと、今回は皆様の事じゃ~あ~りませんよ~っ!
実はな~んと、優し~いお客さまがメールマガジンを書いて下さったんです。
毎回毎回ネタ切れとかぶつぶつ言っているのを聞いて下さっておりまして、、、
お正月に一生懸命、夜なべをして?書いて下さったんです。
しかも口調もかなり僕にわざわざ合わせて頂きまして、、、、
(笑)
ここで簡単ですがご紹介をさせていただきま~す。
本日の講師は、大阪で上乃空工房を運営されています。清水あいさんです。
https://www.savageblue.com/orimono/shimizu.htm
それでは宜しくお願いします。
はりきってどうぞっ~う!ぱちっぱちっぱち~!
[ しのぶもぢずり ] 特別講師 清水 あいさま
みなさんこんにちは!!
今回はネタ切れのこうしろうさんに代わりまして、私、清水あいがお送りいたします。
いつもは糸のお話ですが、今日はある織物のお話です。
よろしく最後までおつき合い下さいませ。
それでは本日も楽しく、お勉強しましょ~! ぱちぱちぱち!
早速ですが、みなさんは「しのぶもぢずり」という織物を御存知でしょうか?
福島県の旧郡の信夫郡(しのぶぐん)で作られていた「山繭を紬いで織り、天然染料で後染めをする織物」なんです。その染め方が原始的で稚拙ともいえますが、日本で染めを始めた頃の方法で染織をしている私にとって、非常に興味深いものがあり調べてきました。
みちのくの しのぶもぢずり 誰故に
乱れ染めにし 我なら泣くに
(百人一首 河原左大臣源融 905年)
春日野の 若紫のすり衣
しのぶの乱れ 限り知られず
(新古今和歌集 在原業平 994年)
例えばこんな風に「信夫綟摺(しのぶもぢずり)の衣」を詠んだ歌があります。
「しのぶもぢずり」が多くの詩人に詠まれていたのには、布の魅力と合わせてもう一つ「しのぶ」という言葉の持つ意味が関係しているみたいなんです。
「しのぶ(偲ぶ、忍ぶ)」には、心中に秘して思えば思うほど苦しく切ない、かなわぬ秘密の思いという意味があり、歌にも詠みやすかったようです。
この意味がプラスされ織物もいっそう魅力的になったのでしょう。
それでは、はじまりはじまり~~。
「信夫綟摺(しのぶもぢずり)の衣」の起源
奥羽地方に養蚕業が広まったのは奈良朝のはじめからで、以来この地方の特産物として絹織物が都に献上されていました。
信夫もぢ摺りの名が京都に広まったのもこのせいで、その後、平安から鎌倉時代にかけて全盛期をむかえました。
東北(陸奥)の信夫の郡では、みだれた摺りを好むと伝えられるところか
ら、やがてその摺りの名前をしのぶもぢずりと言うようになりました。むかしは陸奥国信夫郡がもぢずりの産地でしたが、だんだんほかの地方でも、もぢ摺りは作られるようになりました。
「東鑑」によると、藤原基衝が毛越寺の建立に際して仏師運慶たちに莫大な贈り物をしているが、その中に「信夫毛地摺千端」というのがあり当時の生産量の多さがうかがえます。やがて江戸時代にはいり生産量はだんだんと減りはじめ、残念ながら今は残っていません。全く。
◎「しのぶもぢずり」とは?
「しのぶもぢずり」を理解する上で、よく似た織物「しのぶずり」があります。
この二つの織物は名前がよく似ていて、しかも「しのぶもぢずり」を略して
「しのぶずり」という場合もあるので本当にややこしいのですが全く違う織物です。
*まず、「しのぶずり」とは・・・
忍草という植物があり、それには二種類あります。
ひとつは、「シノブグサ」または「イハシノブ」と称するもの。
もうひとつは、「ノキシノブ」、「クサホヤ」、「ホヤ」と称するものです。
後者は老樹に着いたり、古屋の軒端に垂れるものとある。
しのぶずりとは、これら二種類の忍草を摺ったものです。
*そして、問題の「しのぶもぢずり」とは・・・
陸奥國信夫郡で生産された、摺った形の捩(もじ)れたもの。
*ついでに、伊勢の津より産する「綟子(もじ)織」とは・・・
紗のような薄織で、織り糸は撚り糸だった事からもぢ織りといった。
もぢという言葉は、真っ直ぐではないもじゃもじゃしたものを指すので、よ
り糸織をもぢ織と呼んだのだろう。信夫もぢ摺は、織糸がもぢれているところからの銘銘ではなく摺形のもぢれているところからの銘銘になります。
いろんな色彩が入り乱れて染められているので、もぢ摺と名づけられたというのが正解かもしれない。
「もぢ
摺り=みだれた摺り」です。
そしてこのようにして農婦が染めた布で貴族の人々が狩衣(注1)や水干
(注2)を作り、やがて「しのぶもぢずり」は広く公家や武家、庶民の間で
流行していきました。
** マメ知識講座 **
注1-- 狩衣(カリギヌ)
もともと公家がタカ狩りの時に用いたが、後に公家の平服
、武家の正装に格上げされた。
注2-- 水干(スイカン)狩衣に似ている。
庶民や下級官人が常用したが、しだいに
公家や武家にも用いられるようになり、鎌倉~室町時代に
かけては、武士の晴れ着となる。
◎染色の方法
陸奥には古来よりもぢれたような紋のある奇石が多くありました。その上に細かく砕いた雑草や花弁、山藍などを置き、その上に布を被せ小石で布を打ち植物の色素を布に移します。
(石の面のたいらなところを
利用する方法もあります。)
その布を乾かし豆汁ややしゃぶしの汁などに浸し清水にさらすと、あら不思議!
それはそれは鮮やかな模様が浮かび上がってきたそうです。
染料のかわりにに赤土を利用した地方もあり、木綿などの普段着も染め
ていました。
ま~、でもこの説は少し考えすぎで、「摺り」は、もともとは染めると同じ意
味に用いられていました。
衣を染める技を知らなかった昔の人が、石の面の平らな所に色のきれいな草花を並べ、藤布などを置き、その上から
丸い石でこすって草花の色を布へうつしていた。
というようなことです。
その他、同じような摺り衣に、萩の花摺り、つつじ摺り、山藍摺りなどもあ
りました。
(残念ながらこれらの摺り衣も早い時期に消滅してしまいほとんど資料がありませんでした、、、)
しかし、平安朝の華やかな貴族らに愛される程、趣のある織物なので、
紅紫黄緑などの美しい色が入り乱れ染められていた事でしょう。
<<信夫郡に伝わる昔話>>
昔昔、9世紀の頃、陸奥の国の使いである源融公(後の河原左大臣)がおしのびでこの辺りまでまいりました。
夕暮れ近いのに道もわからず困り果てていますと、この里の長者が通りかかりました。
公は心動くままに長者の案内を受け、一泊の宿をとり、そこで出迎えた長者の娘「虎女」と出会う。
公は虎女の美しさに思わず息をのみ、虎女も
また公の高貴さに心をうばわれました。
こうして二人の情愛は深まり公の滞留は一ヶ月余りにもなりました。
やがて公を迎える使いが都からやってきました。
公はその時始めてその身分を明かし、また会う日を約束して去りました。
再会を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、「もぢずり観音」に百日参りの願をかけ、満願の日となりましたが、都からは何の便りもありません。嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと「もぢずり石」の面に慕わしい公の面影が彷佛と浮かんで見えました。
懐かしさのあまり虎女がかけよりますと、それは一瞬にして消えてしまい、
喜びもつかの間、失意の谷底に突き落とされた虎女は、悶々の日を過して遂には病の床についてしまいました。
みちのくの忍ぶもぢずり 誰故に みだれ染めにし 我なら泣くに
河原左大臣源融公の歌が便りと共に使いの手で寄せられたのは、ちょう
どこの頃でした。
慕わしき君も同じ思いであると詠まれた歌をひしと抱きし
めながら虎女は、その短い生涯をとじていった。とさ。
涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり
(正岡子規)
早苗とる 手もとや昔 しのぶずり (松尾芭蕉)
さて、「しのぶもぢずり」いかがでしたでしょうか?
日本にはみなさん御存知の大島や結城、芭蕉など以外にもこんなにすて
きな織物がありました。
残念ながら織物は消えてしまいましたが福島市内には今でも信夫山やもぢずり石が現存します。
一度訪れてみてはいかが
でしょうか?
それでは、最後まで読んで下さってありがとうございました。
☆ 清水 あい (自己紹介)
清水あいさんの運営する上乃空工房の公式ホームページ&ブログ
1975年大阪市生まれ。
1994年に滋賀県立美術館で開催されていた
「志村ふくみ展」を見て染織を生涯の仕事にしようと決意する。
その後、京都と新潟で織りの勉強をし、今年の4月大阪府岬町に工房
「上乃空工房」を設立。
現在も独自で福島、山形、島根、山口などの織り
工房を見学し制作の幅を広げている。
将来は織りを仕事としながら自然
と共存し日本人らしい生活をしたいと思っている。
本当にたくさんの興味深い事をありがとうございました。
※これらは2002年1月9日に西陣の糸屋が発行したメールマガジンを変更した内容です。
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最終更新日2012年2月
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